コンビニやホカ弁のレジで漢字一文字の店員さんだと、「春節は帰らんとね?」とつい話しかけてしまいます。
弊院のぼろマンションにも何人かの外国人が入居しています。最初はルールを守ってくれませんので、管理組合の役員である私も3回位注意して、それでも従ってくれない時は実力行使に移ります。でも腹は立ちません。
訳の分からない外国に単身でやって来て、一旗揚げるためか、仕送りするのか、それは分かりませんが、その根性に敬意を表します。安全な無菌室に閉じこもっているような私ら日本人より余程勇気があります。
最近「満蒙開拓団」や「アメリカ移民」のテレビドラマをよく見かけます。
私事で恐縮ですが、
私の父方の祖父母(私の父の両親)もアメリカ移民でした。貧しくて日本では喰って行けないと思った祖父は、大正の初めつまり20世紀初頭に家族を残し単身アメリカに渡りました。
これは何とかなるかも知れないと判断した祖父は一時帰国し、再度家族を連れ、片道切符だけ買って無一文で渡米しました。
祖母と子である父たち4人兄妹のうち父を除き、年の離れた兄二人(私にとって伯父)と乳離れしてない妹(私にとって叔母)というメンバーです。それ以外にも親戚や近所の人たちも数名いたようです。父は乳離れした幼児でしたので、足手まといになるということで、日本の親戚の家に預けられました。その後父が両親に会うのは、10年後小学6年生の夏休みに単身船で渡米した時になります。
シアトルに住み着いた一族は、祖父が線路工夫、庭師、クリーニング屋、床屋等数多くの肉体労働をし家族を養いました。伯父二人はハイスクールから大学まで進みました。上の伯父が「学生時代に演劇部にいた長身で美形の男はその後映画俳優になったよ。ゲーリークーパーというけど・・」と言ってました。
祖父母は渡米7年で、シアトルのダウンタウンに客室が200あるホテルを買い、経営を始めました。その当時シアトルの日系移民の出世頭です。普通のやり方では成れません。
1920年代アメリカは「ローリングトゥエンティ」と呼ばれ、禁酒法の時代でした。
祖父母は違法に密造酒を作り、儲けました。それ以外にもえげつないことをやってたに違いありません。
約10年間 豊かに暮らしましたが、祖母がホームシックになり、1931年全員で帰国することになりました。ホテルは中国人に貸しました。
毎月毎月膨大な賃貸料が入ります。祖父母は地元の土地や田畑を買いまくりました。
しかしその後太平洋戦争が始まりました。
帰国していましたので、収容所生活は免れましたが、ホテルは中国人に取られました。
警察からは、いつも見張られています。肩身が狭い感じです。
父は前述のように、日中戦争当時、中尉の中隊長として従軍していましたが、「憲兵にいつも見張られていた」と話していました。
戦後「農地改革」があり、手に入れていた土地や田畑は国に没収され全て失いました。
しかしほぼネイティブスピーカーだった伯父叔母は、戦後の生活には困りませんでした。
戦後しばらくして嫁いで来た私の母は、姑(私の祖母)から「箱に入ったちり紙(たぶんティッシュペーパーのこと)があったら買って来て」とか「日本の車には電話が付いとらんけん不便やね」とか言われ、意味が分からなかったそうです。その頃はまだ新聞紙でケツ拭いてましたし、移動電話が普及するのはその50年後でした。
そんな国と戦争したんですよ!
私が小さな子供の頃、田舎で祖父の葬式があり一族が集まりましたが、紋付袴、留袖等着物姿なのに、会話は英語が混じるという変な雰囲気でした。
1995年アメリカを訪れた際に、シアトルに寄りました。ホテルは既に無く、跡地にパーキングビルが建っていました。そこをしつこくカメラで撮っていたら、通りがかった親切な老夫婦に
「こんな所撮らなくても、他に良い所がいっぱいあるよ」と話しかけられました。