今年もいよいよ押し詰まって来ました。
皆様も何かとお忙しいことと存じます。
弊院の予定は、
12月31日~1月3日 お休みとさせて頂きます。
宜しくお願い致します。
鈴木宗男元衆議院議員が1年ぶりに仮釈放で出て来ました。
本人や家族、友人たちは嬉しいでしょう。
私は鈴木宗男氏の政治信条についてとやかく言うつもりはありませんし、地元北海道やロシア、アフリカ外交に努力されたことは知っています。
しかし厳密に言えば未だ刑期を終えておらず、犯罪者です。
なのに何故「帰りを祝う会」として、国会議員である小沢一郎や鳩山由紀夫は迎えに行き、まるで英雄の凱旋のように歓待するのでしょうか?
鈴木氏本人は言いたいことは山ほどあるでしょうし、司法制度にも問題はあるでしょう。
しかし日本は法治国家です。
私たちはそれを尊重して暮らしているはずですが・・
12月8日は太平洋戦争を始めた日です。しかし「開戦記念日」はもう死語となっています。もちろん「記念」する必要もありませんが・・
「終戦記念日」という言葉は生きていますが、これも単に「敗戦日」だと思います。
12月8日に日本帝国海軍連合艦隊は真珠湾攻撃を敢行しましたが、日本の外務省と大使館のミス、或いはアメリカの意図的な無視により「宣戦布告」が間に合いませんでした。このことは最終的に原爆投下の正当性に繋がって行ったと思います。
アメリカは「日本は宣戦布告無しに奇襲攻撃を行った」と言いますが、アメリカ自身が数多く行った戦争で、開戦前にきちんと「宣戦布告」をしたことはまずありません。
話は飛びます。
この時期や「終戦記念日」の頃は、戦争関連のテレビ番組が多くなります。
NHKでは「坂の上の雲」が又始まりました。
私の予想に大きく反して、戦闘場面のリアルさにはびっくりしました。良く出来てますね。
ロケはもちろん、最近のCG技術の進歩には目を見張ります。
東郷平八郎が乗っていた旗艦の戦艦「三笠」だけは、横須賀の公園に実物が現存してますので、納得の映像でした。
戦後アメリカが砲撃訓練目標として、ツブさなかったのは不思議ですね。
実物をご覧になってない方は、是非一度訪れて頂きたいと思います。
配役はちょっと残念なところもあります。個人的で些細な意見ですが、
秋山兄弟はともに、日本人っぽくない美形でしたので、阿部寛、本木雅弘ともに「あり」です。
正岡子規役の香川照之は芝居が上手過ぎます!まさに乗り移った感じです。ただ「龍馬伝」の岩崎弥太郎がカブリます。
東郷平八郎は好々爺というか、白髪できれいな小さなじいちゃんだったので、渡哲也には違和感があります。大滝秀治か、大山巌役の米倉斉加年がそのままピッタリです。
柄本明の乃木希典はいいですね。本当は笠智衆がそのまんまですが・・
高橋英樹の児玉源太郎は、大男過ぎるような気がします。
米倉斉加年の大山巌は違い過ぎます。
大山巌は西郷隆盛のいとこです。つまり太った大男です。そして美形ではありません。
それぞれの登場人物の逸話はあまりにも豊富で事欠きませんが、大山巌について述べましょう。
西南戦争では政府軍として西郷軍と戦ったため、二度と鹿児島には帰らなかったようです。
徳富蘆花の「不如帰」(ホトトギス)の主人公浪子は大山巌の長女信子がモデルです。
小説では浪子の母親が他界した後、継母に苛められるという展開でした。
大山巌はヨーロッパに留学経験のあるなかなかの紳士でした。
大山巌の後妻の山川捨松(強烈な名前です)も、日本最初のアメリカへの官費留学生でした。そのメンバーには津田塾大学創設者の津田梅子たちがいます。小説とは違い実際は先妻の子供たちを立派に育てましたが、「不如帰」のストーリーには晩年まで悩まされたようです。後年蘆花は小説の筋書が実際とは違うと、捨松に謝罪しました。捨松は洋風な美人で、兄は東京帝国大学総長を務めた山川健二郎です。
話はまた飛びます。
某国営放送は今「日本人の戦争」という特集を放送しています。
第1回目は日中戦争での日本軍の行為を当時の兵士の証言を交えて語っていました。
当時は戦争状態であったし、捕らえられた中国人が民間人か兵士かゲリラ兵かの説明もはっきりしない中で日本兵の行為だけが懺悔風に扱われていました。90歳前後の方々に思い出させるのもどうかと思うし、国営放送が自国のことをそこまで抉り出す必要は無いのでは?そんな国は他に無いのでは?と思いました。
目前の敵兵を処刑することは悲惨なことですし、手を下した当事者はいつまでも忘れないでしょう。それに比べ高射砲弾の届かない安全な高空からボタンを2回押すだけで、瞬時に20万人の年寄、女、子供を殺した原爆の方が余程残虐だと思いますが・・
私事ですが、もう亡くなった父親が20数年前70歳過ぎの頃、中国ツアーが解禁になり、どうしても昔いた中国に行ってみたいと言い出しました。
旅行直前になり、父親から突然電話があり「中国行ったら、オレ捕まるかなあ?」「えー何言いよっとね?!」「厭なことは部下にはさせられんかったからね」「いずれにしろ50年も前のことやし、旅先で酔った勢いで余計なことは言ったらいかんよ」ボケて来たのかなあ? その後何事も無く帰国しましたが・・
父親は就職後すぐ召集され、予備士官学校を経て中尉の中隊長として1個中隊約120名を率いて中国を転戦しました。いわゆる日中戦争の勝ちいくさの頃ですが、20歳代前半の若者には荷が重かったと思います。
日頃から無口だった父は戦争中のことについては、ほとんど語ることは無かったし、訊いてもまともに答えませんでした。
亡くなった父がその時何を思い出し、何を心配していたのかは、もう知る由もありません。
2~3年前の台湾の特集の時も、この某国営放送の論調には首を傾げました。
子供の頃、母親たちの会話の中で、
「○○さんのお宅、最近大きなテレビ買われたそうね?」
「大きくはないけど、この子が欲しい欲しいと言うもんで・・」
「オレ 一言も言っとらんよ!ダシに使わんでよ!」
「大人の会話に首突っ込まんでいいと!」
「・・・・・」
最近の政治家やえらい人の話の中で、
「未来の子供たちのために・・」というのが、枕詞のように付いて来ます。
少子化が進んでいますし、特に大震災の後はよく耳にします。
未来の子供たちのためでなく、今の自分のためでしょうが・・・