日馬富士が2場所連続で全勝し、横綱昇進が決まりました。
幕内最軽量だそうです。日本人力士たちは何をしているのでしょう。
体格的に優るヨーロッパ系力士に負けるのは少しは理解できますが・・
それとモンゴル出身力士たちの日本語の会話力にも驚かされます。
口下手な日本人より上手です。
日本人が書けない四字熟語も使いこなします。
アクセントやイントネーションにも違和感がありません。
顔も何となく日本人らしいです。我々のことを人種的にモンゴロイドというのも納得できます。
地理的には、すぐ近くのあの国やあの超大国より遠いはずですが・・
それにしても私ら日本人の語学力は何とかならないのでしょうか?
最近の領土領海問題も交渉力・コミュニケーション能力・会話力の不足が大きいのではないでしょうか?
世界的に見て大半の言語の文法は「主語・述語・目的語」の順番ですが、日本語のそれは「主語・目的語・述語」という決定的に不利な点はあります。しかしハングルもそうでありながら韓国の人々は、日本人に比べかなり上手に英語を使いこなします。
日本人は「主語」さえよく省略します。「ところでだれの話ばしよっとね?」と確認が必要なこともよくあります。
又いい歳になって来ると「あれがあれして、これがこげなふうになったとよ。」と代名詞だけで通じます。
私は子供もいないので、その後の学校教育がどうなっているのか知りませんが、私らの時代の小学校の「反省会」や中学校の「ホームルーム」での揉め事の結論は「みんな仲良く!」とか「各自の自覚の問題です。」とかに落ち着くことが大半で、「考え方が全く違うので、結論を集約できないこともある。」とか「仮に考え方が違っても、それはそれとして付き合って行く。」とかの結論にはならなかったように思います。尤も同じ組に全く異なる文化の子がいる、というのは稀でしたから。
話は元に戻りますが、私ら日本人の語学力とりわけ英語力は何とかならないのでしょうか?
戦後70年近くなりますが、相変わらずのような気がします。
「語学」という「学問」にするからいけないのでしょう。「音楽」は教科の一つですが「音学」ではありません。ビートルズのメンバーも音符が読めないまま、あれだけの曲作りをしてたそうです。「ゴガク」も「語楽」にしてはどうでしょう。学問として権威付けするよりツールとして使いこなす方が憶えると思います。
「I am 西田」を訳せば、「私ハ西田です」か「私ガ西田です」です。文法的な意味合いは日本語でさえ上手に説明できませんが、使い分けてます。
こう言うと必ず出て来る反論は「しゃべれれば良いという問題ではなく、論理的な構築や自国文化の深い理解が大切であり、そうであるならばまず正しい日本語できちんと話せるようになりましょう。」と言っているうちに、70年経ちました。
ほとんどの日本人が中学3年間、高校3年間、合計6年間 毎日英語の授業を受けています。他のお稽古事 例えばピアノを6年間毎日練習すれば、友達の結婚式で披露できるくらいになれます。武道でも2段か3段くらいにはなれる可能性があります。
でも英語になると、街で外国人に道尋ねられると「ワタシ 英語しゃべれませんから・・」と平気で答えます。これが算数だと「わたし算数ができないので、お釣りが合ってるかどうか分かりません。」とは言いません。
大学でも美大の絵画科出身で「ワタシ絵は描けません」とか、音大のピアノ科出身で「わたしピアノ弾けません」というのは聞いたことがありませんが、英文科出身で「ワタシ英語しゃべれません」というのは謙遜もあるでしょうが、結構聞きます。
教える側も「学問」にする方が簡単です。「関係代名詞」「分詞構文」「現在完了進行形」等々、外国人にほとんど接しなくても地方の教育大学でマスターできますし、公立の教員になれば、コミュニケーション能力の高い英会話学校の講師より2倍以上の収入が安定的に得られます。
試験問題も何が正解が分からない、あるいはいくつもの正解が有り得る、英会話の問題作りは大変ですから、○×式か四択等にしておけば、採点も簡単です。
高校や大学入試の問題では、あまりに難し過ぎて、英米人でも分かるのかな?と思うくらい捻ったモノがあります。選別するための道具のような気がします。それが分かるからって、その後の長い人生で何の参考になるのか疑問です。
私も大学入試から40年以上経ちますが、解けない英語の問題の嫌な夢を、今だに時々見ます。実際も半分しか分からないような入試問題だったので、もし合格したらもう二度と英語の勉強などするものかと思い、その通り40年が経ってしまいました。
ヒトが真剣に勉強するモティベーションは、それがとても面白く感じられるか、その後の収入に大きく影響するか、それが無ければその後の生活が危うい、のどれかではないでしょうか?
でももう心配する必要はありません。これまでは日本に勢いがあったので、こちらのコミュニケーション能力が低くても、諸外国の方から近寄ってくれました。もうそんな時代ではありません。日本人がこちらから出向かねばなりません。これからの若い人たちは外国語を生きて行くためのツールとして必死に学ぶはずです。
私も中国による日本植民地化に備えて、そろそろ中国語の勉強を始めようか、と思う今日この頃です。