コンビニで1Lの紙パック牛乳やジュースを買うとレジで「ストローお付けしますか?」と訊かれる。
「あのね 一度に1L飲みきれんからストロー刺したまま冷蔵庫にしまうやろ。長時間入れたままにしてたらおなか壊すよ。ストロー付けるのやめた方がいいよ」店員さんがキョトンとしている。名札見たらグエンさんだった。ノーガキ語ってるうちに後ろに3人並んでた、すみません。
近頃ニュースでストローの話題がよく流れる。ウミガメの鼻に刺さるとかマイクロチップの海洋汚染とか。プラスチックごみの問題はストローだけではないだろうに。そもそも私はストロー使わないし。ストロー業界には悪いが、そんなに必要なのか?
ストロー(straw)とは元々「麦わら」のこと。子供の頃のいわゆるストローは麦わらだった。
クレーン(crane)とは起重機のこと。クレーンの方が分かりやすいが元々「鶴」のこと。
キャタピラー(caterpillar)は無限軌道装置のことだが、この方が分かりづらい。元々は「いも虫」のこと。
昨日博多駅の飲み屋街で店員さんが「レシートでいいですか?領収書にします?」と言ってた。レシート(receipt)って「領収書」だけどな?
数年前だが、知り合いの90歳代のオジイサンに訊かれた。
「今の人は、全然大丈夫とか言うけど、全然の後は~ない、とか否定形のはずだよね?」「おっしゃる通りだと思いますけど、私たちの世代でも肯定形アリですよ。全然OKです。」と答えたら寂しそうな顔された。
先日複数の医師がいる掛かりつけのクリニックに行った時に受付で「A先生おられますか?」と尋ねたら「ええ いらっしゃいますよ」と言われた。ここ数年そうだ。
言わなきゃいいものを「患者に先生おられますか?と訊かれたら、おります、が正しいですよ。丁寧語と尊敬語の使い方が間違っとる。A先生の奥さんから電話掛かって来て、ダンナおる?と訊かれたら、いらっしゃいますよ、でいいですけど。」
その後 行きづらい。
最近は企業のリスクマネジメントやアスリートのメンタルトレーニングが行き届いている。
しかしスポーツ選手の勝利者インタビューでは「ここまで育ててくれたオトウサンオカアサンに感謝してます。」チチハハだろう。ましてそんなことは控室か自宅で言え!
15年くらい前「・・・オカンと時々オトン」とかいう小説が大ベストセラーになった。
著者の俳優は北九州生まれの筑豊育ちだ。九州ではオトンオカンとは言わない。標準語と同じくトウチャンカアチャンかオヤジオフクロだ。
題名のリズム感は良いが、題名が胡散臭いので読んでない。
今回も文句タラタラでした。
重厚な昭和が終わる頃、石原裕次郎と美空ひばりが消えて行った。
平成が始まり長い低迷期に入った頃、あまり質の良くない素材(メロディー)を強いスパイス(16ビートのリズムと変な英語の歌詞)でまぶしたファストフードのような歌が溢れた。
そこで育ったスーパーアイドルもそこを上手く抜け出し、平成が終わりに近づいた今年引退した。
流行歌は時代背景とその時の自分の心象風景を映し出してくれる。
楽しかったことはもちろんだが、思い出したくもない痛い失敗も懐かしいものに変えてくれる。
コ・ロ全盛の頃いい歌もありました。
中西保志「最後の雨」
衛藤利恵「天使の微笑み」
古内東子「誰よりも好きなのに」
かの香織「午前2時のエンジェル」等々
懐かしくないですか?
お金要らないから来て。
お金払えないから来ないで。
お金払うから来ないで。
自分はどの立ち位置にいるのだろう?
人を血液型で4つに分類するのは日本人だけらしいが、それはそれとして以前から自分の中で、
僭越ながら人や物事をいつも無意識に分類しているやり方に気が付いた。
善悪、損得、快不快だ!
このバランスで人それぞれの個性や意思決定が決まると感じている。
自分の中でも変わって行くけど。
しかし善悪と損得は理性で判断するがよく間違える。
快不快は感性だが最初に胡散臭いモノはやっぱり怪しい。
最近 小学生の通学時の荷物が重過ぎて問題になっているらしい。
しかしまもなく教科書は廃止になって各児童にタブレットが配布になり、試験も紙はなくなるだろう。
赤鉛筆での採点もなくなり、教師のPCで数分で終わる。もうそうなっている学校もあるかも知れない。
そうなれば教科書印刷会社とランドセル業界と新一年生はがっかりだ。
しかし日本の小学生は何故ランドセルなんだ?
5万円くらいするが6年間毎日使ってもビクともしない。あのツクリならブランドバッグに比べても高いとは思わない。
元々は幕末の頃のオランダ兵の背嚢であるRANSELがモデルらしい。
しかし何故まだ使えるランドセルを中学生は使わないのだろう。手提げカバンより楽なはずだ。
子供が使わなくなったのでオヤジが使ったら変態だと思われる。
学生服は陸軍軍服が、セーラー服は海軍水兵(セーラー)の服がモデルだ。
これも水兵の制服だからと言ってオヤジが着たら変態扱いは間違いない。
制服関連はもともとがミリタリー物だと言っても、気軽にオヤジが使うのは要注意だ。
今日は何を言いたかったのだろう?
ポケトークという翻訳機が販売されている。3万円前後と高くないが、日本語をしゃべると瞬時に70数言語に音声で変換してくれる。当然逆もアリだ。最近のITやAIの進化には驚く。
たまにはおバカな翻訳もするらしいが、すぐ学習していくだろう。
個人的には「汚職事件」を「お食事券」と訳してくれたら嬉しい。
これがあれば日常英会話には困らない。ベトナム語でもペルシャ語でも。
これまで70数年に亘る我が国の英語教育は何だったのだろう。
数学の教師は難しい計算ができ、国語教師は難しい漢字も知っているが、英語教師には簡単な英会話も満足にできない教師が、私らが子供の頃はいた。
大企業並みの給与を40年払い続ける必要はない。今はまさかいないと思うけど・・・
以前にもブログに書いたが、日本の義務教育で英語をやめてはいかがか?
日本人の9割くらいがその後の人生で英語は必要としない。
外国語は学問ではない。ツールだ。必要な人は自動車学校のように民間の英会話学校で習えば良い。必要な人は必死に学ぶ。
今は高校や大学入試のための重要な選別手段だが、人の能力を選別する知的フィルターの一つとしても適切だとは思わない。
大学入試で必要ならTOEICやTOEFLや英検に外部委託してはどうか?
話は変わるが、教師の長時間労働が問題になっている。
私は英語教育と共に、義務教育で部活もやめてはいかがか?と思う。ついでに古文も漢文も。
空いたコマで毎日体育をやってほしい。
部活でやっていたスポーツは民間のクラブチームや道場で、文化サークルはヤ・ハ音楽教室等に行ってはいかがか?
少なくとも教師よりインストラクターの給料は安いが、専門分野の技量は比較にならない。
民業圧迫にもならないし。
先週 築地市場が閉場になりました。
私が40数年前就職したのは大手水産会社だったので、最初の仕事場は築地が主でした。
プロの職人だらけでした。
魚関係だけでなく、場内にあった吉野家1号店では、馴染みの客がカウンターに座るやいなや、牛丼が出て来ます。
何百人の客の好みが頭に入っていました。「つゆダクダク、ねぎダク、アタマの大盛」と言う風に。
懐かしいです。
アメリカ戦争映画の典型的なストーリーとして、
主人公は士官学校を出たばかりの意気盛んな新米将校だが、いきなり特殊部隊養成課程に放り込まれる。
階級は下の軍曹だが絵に描いたような鬼教官に身も心も極限まで追い込まれるが、辛うじて卒業する。
数年後いっぱしの大尉で中隊長になった主人公の部隊に、その鬼軍曹が配属になる。二人は過去の軋轢を克服しながら大作戦を成功に導く。
40数年前 私が大手企業に就職した頃の大卒キャリアは、3~5年毎に管理、営業、生産、海外等の各部署を転籍しながら15年くらいで管理職になっていた。
例えば入社後すぐに地方支店の経理課に配属になると、待ち受けるのは地元の商業高校出の係長や主任だ。恐ろしくソロバンが早いし専門分野である経理についてやたら詳しい。温厚で分をわきまえているし、訊けば親切に教えてくれる。会社や社会のオキテも教えてくれる。しかし「道」を外れるととてつもなく恐ろしい。今でも尊敬している方も多いし懐かしい。
ただ民間企業が軍隊と違うのは、そのノンキャリの方々でも役員へ道は、とても険しいにも拘わらず閉ざされてはいなかった。
話は変わるが、医師不足や偏在がよく話題になる。
私は、例えば10年以上勤務経験のある看護師を3年くらいの教育で医師にしたらどうかと思う。
どこの大病院でも新卒の研修医を叱り飛ばす、やる気のある鬼のような看護師長がいると想像する。
脳外科や心臓外科は無理でもホームドクターや地方の診療所を任せてはどうだろう。
ヒエラルキーを侵されたくない医師会にも配慮して、医師を専門医と一般医というような区分けにするのはどうだろう。
もちろん増大し続ける社会保障費の問題はあるが・・・
先月最も人気のあるスマホ会社が新機種を発表した。
残念ながらこれまでSEと呼ばれていた最小機種の新型はもう製造されない。
これの意味することは、スマホはこれでもう完全に携帯電話ではなく移動できるコンパクトな総合情報機器だということだろう。
もうポケットに入れることはなくバッグか手持ちになる。
それでますます雑踏で手持ちで見ながら歩くヤツが増える。
まわりへの配慮はなく、特段急いで見なければならない情報ではないのに(ラインかさっき友達がUPした昼飯のインスタだろう)・・・
歩きスマホをしているヤツの意識はスマホに向かっているのに、まわりはソイツの動向に配慮している。
交差点で一人でゆったり信号を渡りながら、歩きスマホをしているヤツを5~6台の車が止まって待っている。ソイツにまわりへの配慮はない。
まるで日本国憲法の前文だ。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
つまりまわりの善意に寄り掛かるつもりだ。しかしまわりの諸外国が善意の人々ばかりでないことは、まともな大人なら、とっくに知っている。
実は恥ずかしながら、スマホについてノーガキを垂れている私はガラケーしか持ったことがない。
ラインする友達はいないし、他人が喰った昼飯に興味はない。
仕事の予約を電話かメールで受ける私にとってガラケーは生命線だ。
「故障したら宅配便で送って下さい。、でも1週間はかかります」とか言う格安スマホや、福岡なら「天神まで来て下さい」と言う「りんご専門店」に付き合ってられない。
ITやAIがこれだけ進んだ現代なのに、まるで徳川幕府に忠誠を誓わせる江戸時代の参勤交代みたいだ。
今回は文句タラタラでした。