最近テレビで日本刀に拳銃を発射して、弾を真っ二つにする映像や、欧米の剣と日本刀を比較する番組を見ました。
改めて日本刀の凄さにビックリしました。
又しても私事で恐縮ですが、
30年近く前、私が30歳の誕生日の頃、父から実家に来るように連絡がありました。
「おまえも30歳になったことだし、記念にこれをやる!」と手渡されたモノは、日本刀でした。黒鞘で飾り気の無い古い大ぶりの戦場刀で、柄(つか)を抜いてみたら茎(なかご)に、たしか「備前国住次郎左衛門尉勝光」と銘がありました。つまり備前長船か!?重いけどやや手元調子(柄に近い方が重い)で振り回し易そうです。
兄もその前の年に無銘で小ぶりながら、拵え(こしらえ)の華やかなモノを一振り貰っていました。
もともと実家の蔵にあったモノか、父がどこかで買って来たモノかは分かりません。
前述のように父は陸軍将校で、金属が専門のエンジニアだったので、武器や軍装品であった刀に詳しく、自分の軍刀も実家にあった数本のうち、細身で短めで軽いモノを軍刀仕様にして持参したようです。
日本帝国陸軍に於いて「武士の魂」である軍刀は、将校は私物(下士官のは官給品)を用意せねばならず、拵えもかなりの自由度があったようです。
明治維新後、軍隊に於ける日本刀の武器としての価値は失われていましたが、意外にも日露戦争でのロシア陸軍との白兵戦でその有効性を再評価されました。
でも近代の軍隊では日本刀は無用の長物ではないかと思います。
というのは日露戦争の頃の小銃はボルトアクションなので、1発1発の装填に手間がかかり、刀で切り込めるケースもありましたが、その後は次第に小銃もセミオートマチックになり、自動拳銃、サブマシンガン、ショットガンも出て来た太平洋戦争以降の接近戦闘で、刀の存在価値は無くなって行ったのでしょう。
腰に帯刀しての長距離行軍は疲れます。使っても突撃の際の指揮刀としてです。したがって父は軽く短いモノを持参した訳です。
実は兄も私も日本刀に興味はありません。私は武道を好みますが、何故か日本刀には何の思いもありません。しかしせっかくくれた父には兄も私も何も言えませんでした。一人前になった?息子二人にそれぞれ刀を与えた父親の気持ちは理解出来ましたから・・
その後結婚し二人の女の子をもうけた兄は自宅に危ない刀など置いておくつもりはなく、当時転勤族だった私も、引越しの度に持ち歩く訳にも行かず、二人とも刀を実家に預けました。
しばらく経って又父から呼び出しがありました。
「おまえらに刀をやったので、俺のモノが無い。オレのはコレだ!」と白鞘の一振りを自慢げに取り出しました。デパートの刀剣展で買って来たらしいです。怖くて値段は訊けません。
柄を抜くと、茎になんと「虎徹」と切ってあります!
今でも悔やまれますが、父の前で兄と私は思わず笑ってしまいました。
新撰組の近藤勇が持っていたことで有名な「虎徹」は1600年代後半の作なのに、それは昨日作ったかのようにピカピカです。少しは騙して欲しいのに、何のキズも無いステンレスのようです。「虎徹を見たら偽物と思え!」と言われるほど贋作だらけです。それどころか本物だったら家が買えるくらいの値段のはずです。でも「虎徹」の特徴である浅い反りで肉厚、やや先調子(先が重たい)で切断力は凄そうですが・・
みるみるうちに、自慢げだった父が不機嫌になりました。
10数年後、私は脱サラし3年間鍼灸学校に通いました。その後資金が底を突いた状態で福岡に帰ってきて開業しました。「そうだ!勝光があったはずだ!」刀には興味無かったけど、刀の値段には興味がありました。実は「勝光」を貰ってすぐ日本刀の専門書を数冊買いました。日本が絶好調の頃でした。「勝光」は1500年代初めのモノで650~800万円、と書いてありました。今はもうバブルは弾けたけど、偽物でも100万円位にならんかなあ?
父には直接訊けなかったけど、母、兄、妹に電話しました。みんな口籠ります。
「虎徹」の一件の後、怒った父は「虎徹」をすぐ売り払い、なんと私の「勝光」をグラインダーで刃を潰し、細かく切断して捨てました。
兄の「無銘」だけは、脳卒中で不自由になった手で手入れをしているそうですが、母は危ないので気が気ではないそうです。兄は「刀は要らない」と言うし、母は「早く処分してくれ」と言うので、父を説得し、安かったけど、私が博多で売却しました。
刀に詳しい父のことですから、「虎徹」が本物だとは全く思っていなかったでしょう。
兄と私は、どや顔の父にただ「凄いね!」と言えば良かったのです。
真贋は別にして、それぞれの刀工の方にも申し訳ないことをしました。
コンビニやホカ弁のレジで漢字一文字の店員さんだと、「春節は帰らんとね?」とつい話しかけてしまいます。
弊院のぼろマンションにも何人かの外国人が入居しています。最初はルールを守ってくれませんので、管理組合の役員である私も3回位注意して、それでも従ってくれない時は実力行使に移ります。でも腹は立ちません。
訳の分からない外国に単身でやって来て、一旗揚げるためか、仕送りするのか、それは分かりませんが、その根性に敬意を表します。安全な無菌室に閉じこもっているような私ら日本人より余程勇気があります。
最近「満蒙開拓団」や「アメリカ移民」のテレビドラマをよく見かけます。
私事で恐縮ですが、
私の父方の祖父母(私の父の両親)もアメリカ移民でした。貧しくて日本では喰って行けないと思った祖父は、大正の初めつまり20世紀初頭に家族を残し単身アメリカに渡りました。
これは何とかなるかも知れないと判断した祖父は一時帰国し、再度家族を連れ、片道切符だけ買って無一文で渡米しました。
祖母と子である父たち4人兄妹のうち父を除き、年の離れた兄二人(私にとって伯父)と乳離れしてない妹(私にとって叔母)というメンバーです。それ以外にも親戚や近所の人たちも数名いたようです。父は乳離れした幼児でしたので、足手まといになるということで、日本の親戚の家に預けられました。その後父が両親に会うのは、10年後小学6年生の夏休みに単身船で渡米した時になります。
シアトルに住み着いた一族は、祖父が線路工夫、庭師、クリーニング屋、床屋等数多くの肉体労働をし家族を養いました。伯父二人はハイスクールから大学まで進みました。上の伯父が「学生時代に演劇部にいた長身で美形の男はその後映画俳優になったよ。ゲーリークーパーというけど・・」と言ってました。
祖父母は渡米7年で、シアトルのダウンタウンに客室が200あるホテルを買い、経営を始めました。その当時シアトルの日系移民の出世頭です。普通のやり方では成れません。
1920年代アメリカは「ローリングトゥエンティ」と呼ばれ、禁酒法の時代でした。
祖父母は違法に密造酒を作り、儲けました。それ以外にもえげつないことをやってたに違いありません。
約10年間 豊かに暮らしましたが、祖母がホームシックになり、1931年全員で帰国することになりました。ホテルは中国人に貸しました。
毎月毎月膨大な賃貸料が入ります。祖父母は地元の土地や田畑を買いまくりました。
しかしその後太平洋戦争が始まりました。
帰国していましたので、収容所生活は免れましたが、ホテルは中国人に取られました。
警察からは、いつも見張られています。肩身が狭い感じです。
父は前述のように、日中戦争当時、中尉の中隊長として従軍していましたが、「憲兵にいつも見張られていた」と話していました。
戦後「農地改革」があり、手に入れていた土地や田畑は国に没収され全て失いました。
しかしほぼネイティブスピーカーだった伯父叔母は、戦後の生活には困りませんでした。
戦後しばらくして嫁いで来た私の母は、姑(私の祖母)から「箱に入ったちり紙(たぶんティッシュペーパーのこと)があったら買って来て」とか「日本の車には電話が付いとらんけん不便やね」とか言われ、意味が分からなかったそうです。その頃はまだ新聞紙でケツ拭いてましたし、移動電話が普及するのはその50年後でした。
そんな国と戦争したんですよ!
私が小さな子供の頃、田舎で祖父の葬式があり一族が集まりましたが、紋付袴、留袖等着物姿なのに、会話は英語が混じるという変な雰囲気でした。
1995年アメリカを訪れた際に、シアトルに寄りました。ホテルは既に無く、跡地にパーキングビルが建っていました。そこをしつこくカメラで撮っていたら、通りがかった親切な老夫婦に
「こんな所撮らなくても、他に良い所がいっぱいあるよ」と話しかけられました。
最近日本のオカミの管理能力がおかしいです。
4億円を経理担当者にまかせっきりの政治家。
何百億円も持っていれば、4億円など端数でしょうが、そんなことはないでしょう。あの細かい方が・・
「天下国家のこと」でお忙しいそうです。その割には地元の大震災の時にはあまりお見かけしませんでした。でも政局や権力闘争の時は必ず中心におられます。これが「天下国家のこと」ですね?
17年間も逃げ回っていた手配犯がせっかく出頭したのに、「他の交番に回ってくれ」
中国人犯罪者が脱獄しました。日本の刑務所はだれも脱獄できないというより、快適過ぎてだれも脱獄しない、とでも思っていたのでしょうか?
北朝鮮の難破漁船員を人道的見地から、よく調べもせず、すぐに帰国させました。
ボロ船にGPS積んでたのに・・いや積んでたからこそ・・
仲の悪い国ほど丁寧な対応です。数年前の田中真紀子外相の「正男氏即ご帰国」に似ています。
台湾の容疑者が確保されたパトカーの中で、自殺しました。それも署の前で・・
最初は「任意同行だから、法律的にボディチェックできない」などと杓子定規な言い訳をしてました。 2人惨殺した容疑者ですよ。犯罪者にそれほど優しい国など他にありません。
せっかく日本を好いてくれている台湾に失礼です。
最近由紀さおりさんが欧米で大ヒットだそうです。
だれがこのことを予想したでしょうか?!
団塊の世代の端っこにいる小生も嬉しいです。
予想はできなかったけど、昭和の歌謡曲はやっぱりいいです。
最近はなかなかいい曲に出会えません。
考えてみれば、例えば学校の音楽の授業で習った音階は、
ピアノで言えば、エボニー&アイボリーつまり黒鍵5個と白鍵7個の組み合わせです。
12個の音階の組み合わせですし、心地よいフレーズは限られて来ますから、そのうちネタ切れになるのではないでしょうか?
もちろんトロンボーンやバイオリン、三味線のようにフレットレスの音も出せる楽器はありますが、私ら一般人の耳にはビブラートを効かせているとしか聞こえないでしょう。
これも素人の発言で恐縮ですが、俳句も五七五の17文字、その上季語が限定されれば「これ どこかで見たぞ!?」といずれなって行くのではないでしょうか?
音階は私たちが知っているこの12平均律(実は純正律というのもありますが、私ら一般人の耳にはあまり分かりません)のスケールにも数多くパターンがあります。
例えばチャンチャカチャンの演歌はヨナ抜き(第4音のファと第7音のシが無い)のペンタトニック(7音階でなく5音階)ですから、もっと選択の幅が狭まり、どれも似たような曲調になります。
沖縄民謡、ハワイアン、ブルース(港町・・ではない)等の民族音楽も同じ感じになりますよね。
したがって今後良いメロディーの曲が出てくる可能性はとても少なくなって来るでしょう。ちょっといい曲でも「何かに似ている?」となるでしょう。仕方ありません。
もちろん我が国の近くのパクリ大国で「私が作りました!」という曲は「どこかで聴いたことがある気がする?」というより「そのまんまやんか!」ということが今後も多発すると思います。
いいメロディーは昭和までで出尽くしたのでしょうか?
私らの時代は、ポールアンカやニールセダカらのアメリカンスタンダード、シャンソンやカンツォーネ、ビートルズ、ボブディランらのフォーク、日本のグループサウンズ(懐かしい言葉)、吉田拓郎、井上陽水らのフォーク、天地真理(個人的には南沙織)から山口百恵、松田聖子に続くアイドルの流れ、がありました。
作曲家で言えば、いずみたく、筒美京平、三木たかし、加山雄三、桑田佳祐、荒井(松任谷)由実、小田和正とキリがありません。
私らは音楽的に恵まれた時代でした。
90年代半ばには、空前のヒットを連発したK氏がいましたね。
今は不遇のようですが、飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
私は彼のどの曲も好きではないし、彼の曲で若い時代を過ごした人たちは音楽的に不幸だ、と勝手に思っていました。安っぽい具材(メロディー)を調味料(リズム)で誤魔化しているファストフードだ、とも思っていました。
でも今になってみると、聡明な彼は出尽くしたメロディーの中で、ありがちなフレーズをパクらず、どうやって斬新な曲を作るか悪戦苦闘したのではないか?とも思います。(あくまで素人の意見です)
由紀さおりさんはまだ声が出ていますね!
日本の他の往年の歌手やシンガーソングライターの方々も、昭和の歌を引っ提げてこれから世界に出て行くチャンスがあるかも知れません。期待しています。
ご挨拶が遅くなりましたが、今年も宜しくお願い致します。
とにかく昨年は大変な年でした。
しかし自然災害については分かりませんが、今年も世界や世の中の状況を見ると激動の年になるような気がします。
良い方向に向かうには、打破しなければならないことが沢山ありそうです。
良い志を持って、みんなで力を合わせて、体調を整え頑張りましょう!
今年もいよいよ押し詰まって来ました。
皆様も何かとお忙しいことと存じます。
弊院の予定は、
12月31日~1月3日 お休みとさせて頂きます。
宜しくお願い致します。
鈴木宗男元衆議院議員が1年ぶりに仮釈放で出て来ました。
本人や家族、友人たちは嬉しいでしょう。
私は鈴木宗男氏の政治信条についてとやかく言うつもりはありませんし、地元北海道やロシア、アフリカ外交に努力されたことは知っています。
しかし厳密に言えば未だ刑期を終えておらず、犯罪者です。
なのに何故「帰りを祝う会」として、国会議員である小沢一郎や鳩山由紀夫は迎えに行き、まるで英雄の凱旋のように歓待するのでしょうか?
鈴木氏本人は言いたいことは山ほどあるでしょうし、司法制度にも問題はあるでしょう。
しかし日本は法治国家です。
私たちはそれを尊重して暮らしているはずですが・・
12月8日は太平洋戦争を始めた日です。しかし「開戦記念日」はもう死語となっています。もちろん「記念」する必要もありませんが・・
「終戦記念日」という言葉は生きていますが、これも単に「敗戦日」だと思います。
12月8日に日本帝国海軍連合艦隊は真珠湾攻撃を敢行しましたが、日本の外務省と大使館のミス、或いはアメリカの意図的な無視により「宣戦布告」が間に合いませんでした。このことは最終的に原爆投下の正当性に繋がって行ったと思います。
アメリカは「日本は宣戦布告無しに奇襲攻撃を行った」と言いますが、アメリカ自身が数多く行った戦争で、開戦前にきちんと「宣戦布告」をしたことはまずありません。
話は飛びます。
この時期や「終戦記念日」の頃は、戦争関連のテレビ番組が多くなります。
NHKでは「坂の上の雲」が又始まりました。
私の予想に大きく反して、戦闘場面のリアルさにはびっくりしました。良く出来てますね。
ロケはもちろん、最近のCG技術の進歩には目を見張ります。
東郷平八郎が乗っていた旗艦の戦艦「三笠」だけは、横須賀の公園に実物が現存してますので、納得の映像でした。
戦後アメリカが砲撃訓練目標として、ツブさなかったのは不思議ですね。
実物をご覧になってない方は、是非一度訪れて頂きたいと思います。
配役はちょっと残念なところもあります。個人的で些細な意見ですが、
秋山兄弟はともに、日本人っぽくない美形でしたので、阿部寛、本木雅弘ともに「あり」です。
正岡子規役の香川照之は芝居が上手過ぎます!まさに乗り移った感じです。ただ「龍馬伝」の岩崎弥太郎がカブリます。
東郷平八郎は好々爺というか、白髪できれいな小さなじいちゃんだったので、渡哲也には違和感があります。大滝秀治か、大山巌役の米倉斉加年がそのままピッタリです。
柄本明の乃木希典はいいですね。本当は笠智衆がそのまんまですが・・
高橋英樹の児玉源太郎は、大男過ぎるような気がします。
米倉斉加年の大山巌は違い過ぎます。
大山巌は西郷隆盛のいとこです。つまり太った大男です。そして美形ではありません。
それぞれの登場人物の逸話はあまりにも豊富で事欠きませんが、大山巌について述べましょう。
西南戦争では政府軍として西郷軍と戦ったため、二度と鹿児島には帰らなかったようです。
徳富蘆花の「不如帰」(ホトトギス)の主人公浪子は大山巌の長女信子がモデルです。
小説では浪子の母親が他界した後、継母に苛められるという展開でした。
大山巌はヨーロッパに留学経験のあるなかなかの紳士でした。
大山巌の後妻の山川捨松(強烈な名前です)も、日本最初のアメリカへの官費留学生でした。そのメンバーには津田塾大学創設者の津田梅子たちがいます。小説とは違い実際は先妻の子供たちを立派に育てましたが、「不如帰」のストーリーには晩年まで悩まされたようです。後年蘆花は小説の筋書が実際とは違うと、捨松に謝罪しました。捨松は洋風な美人で、兄は東京帝国大学総長を務めた山川健二郎です。
話はまた飛びます。
某国営放送は今「日本人の戦争」という特集を放送しています。
第1回目は日中戦争での日本軍の行為を当時の兵士の証言を交えて語っていました。
当時は戦争状態であったし、捕らえられた中国人が民間人か兵士かゲリラ兵かの説明もはっきりしない中で日本兵の行為だけが懺悔風に扱われていました。90歳前後の方々に思い出させるのもどうかと思うし、国営放送が自国のことをそこまで抉り出す必要は無いのでは?そんな国は他に無いのでは?と思いました。
目前の敵兵を処刑することは悲惨なことですし、手を下した当事者はいつまでも忘れないでしょう。それに比べ高射砲弾の届かない安全な高空からボタンを2回押すだけで、瞬時に20万人の年寄、女、子供を殺した原爆の方が余程残虐だと思いますが・・
私事ですが、もう亡くなった父親が20数年前70歳過ぎの頃、中国ツアーが解禁になり、どうしても昔いた中国に行ってみたいと言い出しました。
旅行直前になり、父親から突然電話があり「中国行ったら、オレ捕まるかなあ?」「えー何言いよっとね?!」「厭なことは部下にはさせられんかったからね」「いずれにしろ50年も前のことやし、旅先で酔った勢いで余計なことは言ったらいかんよ」ボケて来たのかなあ? その後何事も無く帰国しましたが・・
父親は就職後すぐ召集され、予備士官学校を経て中尉の中隊長として1個中隊約120名を率いて中国を転戦しました。いわゆる日中戦争の勝ちいくさの頃ですが、20歳代前半の若者には荷が重かったと思います。
日頃から無口だった父は戦争中のことについては、ほとんど語ることは無かったし、訊いてもまともに答えませんでした。
亡くなった父がその時何を思い出し、何を心配していたのかは、もう知る由もありません。
2~3年前の台湾の特集の時も、この某国営放送の論調には首を傾げました。
子供の頃、母親たちの会話の中で、
「○○さんのお宅、最近大きなテレビ買われたそうね?」
「大きくはないけど、この子が欲しい欲しいと言うもんで・・」
「オレ 一言も言っとらんよ!ダシに使わんでよ!」
「大人の会話に首突っ込まんでいいと!」
「・・・・・」
最近の政治家やえらい人の話の中で、
「未来の子供たちのために・・」というのが、枕詞のように付いて来ます。
少子化が進んでいますし、特に大震災の後はよく耳にします。
未来の子供たちのためでなく、今の自分のためでしょうが・・・
改めてホークス日本一おめでとうございます!
ところでプロ野球って試合後、対戦相手の選手とエールの交換とか握手とか、敗者が勝者を賞賛したり、その逆とか、しませんね。敗者は道具をまとめてスゴスゴとダッグアウトを後にします。高校野球は試合終了後きちんと整列してお互いに握手したりします。
サッカーでもラグビーでもそうします。ノーサイドなんですよ(ユーミンの「ノーサイド」いいですね)。スポーツによって伝統とか風土が違うのでしょう。
話は変わりますが、「ガッツポーズ」です。
日本のどの武道も試合では、基本的にガッツポーズしません。昔はですね・・
子供たちには「負けた相手への思いやりだよ」などと教えます。
敗者への忖度とか惻隠の情というのはもちろんですが、もう少し深堀りしてみます。
以前述べましたが、武道に於ける本番とは試合ではなく、護身の場面の対処の仕方です。
犯罪者を制圧したからといって、ガッツポーズしていたら、犯罪者と同じレベルに自分を貶めることになります。その前に恐怖感でそのような行動は取れません。
武士道の観点からも、「いくさ」で何の恨みも無い、妻子を国に残した者同士が殺し合う場面で、勝ったからといって、ガッツポーズはしないと思います。恐怖と疲労でへたり込むでしょう。まあ長い闘いが続けば、ヤッタヤラレタの恨みは募って来るとは思いますが・・赤穂の四十七士も「エイエイオー」くらいだったと思います。
むしろスポーツの方で武道的な場面を見ることも多いです。
大リーグで新庄選手が初めてホームランを打った時、思わずバットを高く放り投げました。
大リーグ経験のある解説者が「こんなことしたら、次の打席でデッドボール喰らいますよ」。
ダルビッシュ投手が三振を獲った時、思わず大きなガッツポーズをしましたが、解説していた野村さんは「あまりガッツポーズしない方がいいと思いますよ。だって強い緊張感や恐怖感から開放されたという精神的な弱さを、自ら暴露していることになりますから」というようなことを言っていました。
落合監督は表情が変わりません。プロ野球としては面白味は無いでしょうが・・
今男子バレーボールやってます。
日本チームは得点の度に、凄い形相でガッツポーズします。それだけで疲れませんかね??